(一九)「この世界で自分が正当に権利を主張しうるもの」 私がときおり思い出すことばに、こういうのがあります。
この彼のことばを聞いた女性が彼にこういいます。
私の読書で、この『個人的な体験』が大江作品の上位に来るかというと、そうではないんですが、それでも、いま引用した部分が繰り返し思い出されるんです。そうして、もうずいぶん長いこと、私は自分が「この現実世界にいささかの権利もない」という思いに何度となく、どっぷり浸かってしまうのをどうすることもできないんですね。といって、これは自殺に結びつきはしていないんですけれど。 このことばを初めて読んだとき、まだ二十代の私はこう感じたんでした。これが、いままでずっと自分が感じつづけていて、しかし、はっきりことばにすることのできていなかった真実なんだ、と。読書というのは、まあ、そういうことでもあると思います。 この事情をべつの作品から引用してみますか?
彼女の読んでいる本(『意志と表象としての世界』)の持ち主が、彼女にこういいます。
いま、四十代の私が「この現実世界にいささかの権利もない」と自分に感じるのは、たぶん二十代に感じたそのままなのではないかと思います。しかし、そのように感じるや否や、かつては自分になかったある種の思考の手続きのようなものを私は踏むようになっていて、これが「この現実世界にいささかの権利もない」と私との間に一定の距離感をもたらすことになるんですね。反射的に自分を保護・正当化しているとでもいえばいいんでしょうか。そうして、この手続きを、いまの私はずるいと思ったりはしないんです。 またべつの例を挙げますが、
私は「自分の欲しいものが何かわかっていない奴」をいまそれほどまでに糾弾しようとは思わないんです。昔は糾弾する側でしたっけ。とはいえ、当の自分が「自分の欲しいものが何かわかっていない奴」だったためにこそ、そうしていたんですね。 そうして、いまも私はあいかわらず「自分の欲しいものが何かわかっていない奴」なんじゃないか? しかし、いまは「自分の欲しいもの」とか「手に入れる」とかいう考えかたを疑うようになってもいるんです。 こう疑うようになる過程には、
── という読書も挟まりはしています。 |